2009年10月20日

台湾の大学生たちが日本統治時に存在していた駅の位置や裕仁皇太子の訪台ルート等を電子地図にまとめる

あなたは以前、台北に「新生」や「樺山」という駅があったことを、1923年に日本の裕仁皇太子
が訪台した際どの名所を訪れ、それがどこにあるのかご存知だろうか?

大学生のグループが夏休みの時間を利用し、GIS(地理情報システム)に廃止された67の
駅や路線、再び見ることの出来ない鉄道ホテルや鉄道レストランの詳しい経度と緯度を
携帯電話やPDAを通し気軽に検索できるようにしたのである。もう文学と歴史を探る旅でも
困難が重なることはなくなるだろう。

科学技術の進歩に従い、電子地図を使って観光名所に行くのはそれほど難しくはなくなった。
だが史学部の学生は満足せず、「失われた」場所もそれぞれ測定したくなったのだ。
中興大学の史学部は彰化師範大学歴史所と協力し、歴史文献や田野を参考に資料を
調査してすでに廃止された67の駅と路線と、駅の附属施設などをPOIに登録したのだ。

これらの場所を表示するのは容易ではなかった。例えば台北市の新生駅、樺山(華山)旅客
輸送駅などがあった場所は、とうに公園緑地の中に隠れて見えなくなっていた。

もっぱら日本の皇族が利用していた台湾鉄道のホテルも、すでに新光の摩天楼となっており、
僅かな遺跡の影さえなく、更に「廃線」となった鉄道の駅のレールも残しておく必要がないので
すでに撤去され消えていたのだ。

彰師大学歴史所の教授助手 顧雅文さんによれば、彼らはまず古地図と今の地図を比較、
更に鉄道局の文献資料も矯正の参考にしたという。「幸い日本人の地図はどれも非常に正確
に記されていました。」

大体の場所を探し出した後、更に学生らは現地まで手がかりを追うように赴き、そして位置
付けした設備の経度と緯度を小数点下位6まで正確に調べたのである。

その他にも簡単な文章で説明もいれている。例えば基隆市内の「暖暖駅」。

当時、地元の名士であった周鐘聲の寄付により建設され、開設時は切符販売係の臨時駅
として建設されたのだが石炭採掘に伴い人口は瞬く間に増加し、正式な駅として発展した。
しかし炭鉱での採取が落ち込むと次第に人口も流失し、駅は没落したのである。

学生が探し出した1934年の《台湾日日新報》には、列車が駅に止まらずそのまま通過して
しまう事が頻発していたと住民の抗議もあったようで、ごく短い数とはいえ「暖暖」の盛衰を
描き出している。

他にも、中華民国鉄道協会、台湾の警官協会の定期刊行物や各県市の地方誌を参考にし
1938年の鉄道沿線の写真を抜き出して、現代の旅客ルートを通る際に、携帯電話を通じ
「古今の対比」を見ることもできる。

更に面白いのは、1923年日本の裕仁皇太子(後の昭和天皇)が台湾を巡視したルートを、
GISシステムで表したことで、当時と同じように西部に沿って鉄道を縦に貫くように南下し、
各地の行政機関、学校、工場、温泉、神社などへ漏らすことなく行けることだ。

ルートに従って、日本統治時の台湾の景像を心ゆくまで眺めながら歩くのもいいだろう。

中時電子報(中国繁体字)

























>幸い日本人の地図はどれも非常に正確に記されていました。

<丶`Д´> <ウリナラには呪いの杭を埋め込んでいったニダ。


posted by クリケン at 18:09| 千葉 | Comment(1) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
復活されて嬉しいです!待ってました。また、覗きにきますね。
Posted by moon at 2009年10月20日 20:44
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。