昭和天皇はA級戦犯をひとくくりにして批判していたわけではない。
昭和天皇の側近、木戸幸一内相の「日記」をみると、昭和天皇はA級戦犯に同情を
示している。昭和天皇は終戦直後の昭和20年8月29日に「戦争責任者を連合国に
引き渡すは真に苦痛にして忍び難きところ」、9月20日に「敵側のいわゆる戦争犯罪人、
ことにいわゆる責任者はいずれもかつては只管忠誠を尽くしたる人々」と語ったという。
宮内省御用掛の寺崎英成氏が記した「昭和天皇独白録」からは、昭和天皇が
A級戦犯の代表格である東条英機元首相を信頼していたこともうかがえる。
昭和天皇は21年3月ごろ、「元来東条という人物は、話せばよく判る」「東条は一生懸命
仕事をやるし、平素いっていることも思慮周密で中々良い処があった」などと語っている。
大原康男・国学院大教授は「メモが事実だったとしても、昭和天皇がA級戦犯の
合祀そのものに不快感を示しているとは言えない」と指摘する。
大原氏が注目するのは、今回のメモで言及された人物が、日独伊三国同盟を
推し進めた松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐イタリア大使の2人とみられることだ。
大原氏は「昭和天皇は『独白録』でも松岡のことを一番批判している」と語る。
一方、「公の発言ではなく、非公式メモをA級戦犯分祀論に結びつけるのは、
昭和天皇の『政治利用』になりかねない」(百地章・日大教授)との懸念も出ている。
靖国神社は、昭和53年、厚生省が公務死と認定して靖国側に送った「御祭神名票」
に基づいてA級戦犯を合祀した。
昭和天皇も現天皇陛下も春秋の例大祭には勅使を派遣するなど、靖国重視の
姿勢を示し続けてこられた。昭和天皇の弟宮である高松宮さま(故人)と三笠宮さまは、
合祀後も参拝を続けられた。現宮司の南部利昭氏は就任に際し「天皇陛下から
『靖国のこと、よろしく頼みます』と直接、言われている」(関係者)とされる。
靖国側は分祀について「A級戦犯の御霊だけ除くことはできないし、ありえない」
との立場を堅持している。
政府筋は「手帳のあのページだけ紙がはり付けてあるという。メモを宮内庁で
見た人はいない。本当に昭和天皇が言ったかどうかも分からない」と指摘しており、
分祀論の高まりには戦没者の慰霊を置き去りにした政治的意図を強く感じる。
産経新聞
【重大な疑問】
1 「日記や手帳に克明に書き残していた。」のになぜかこの部分は手帳に貼り付けてある。
2 日記のページは黄色く変色しているのに、メモ自体の保存状態が極めて良好(紙が真っ白)。
3 ブルーインクで書かれた文字が、経年劣化で退色したりかすれたりせず、綺麗なままである点。
4 天皇陛下が自分の(個人的な)意思で参拝したり、取り止めることはできない。
それをできると思うのは、外国人か日本の官僚機構を知らない人達。
5 勅使は陛下の私費で現在も靖国神社に派遣されている。
6 天皇陛下はABC級戦犯も追悼の対象である全国戦没者追悼式に毎年参列して御言葉も述べている。
7 白鳥を白取と誤字。
8 理論構成、概念、時系列が中国共産党にあまりに都合が良すぎるステレオタイプそのもののような文章。
「平和に強い考え」?何それ?中共の影響力の強い旧社会党や社民党がいかにも使いそうな言葉。
「平和に強い考え」=「平和への熱い思い」と同義でしょ。
9 「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。」「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」
合祀された78年ならまだしも、10年後の崩御の前年の88年に語ったとすると日本語としてあまりに不自然。
10 「それが私の(本)心だ。」文末でわざわざもう一度総括(笑)する不自然極まる文章。
11 当時の侍従長でA級戦犯の合祀に大反対だった、徳川義寛氏の発言と考えれば、内容はすべて辻褄が合う。
昭和天皇の侍從長を勤めた徳川義寛氏は、この極東軍事裁判A級戰犯合祀について、
「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と、松平永芳宮司の措置を批判的に語つてゐる
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「昭和天皇と50年・徳川前侍従長の証言」(朝日新聞1995年8月19日)
12 1988年4月28日に富田宮内庁長官の拝謁の記録なし?徳川侍従長とは打ち合わせの記録アリ?(※未確認情報)
13 「藤尾(文相)」とあるが、藤尾正行の文相在任期間は、1986年7月22日〜9月8日。
追加
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★昭和天皇によるメモ疑惑
まとめ
1 このメモは、「関連質問」、「そうですかが多い」などの注記により、公表された会
見の内容をメモったものであることが明らか。
2 当然、「回答者」「質問者」がいるわけだが、富田がメモっていたということは富田
も同席したことになる。すなわち最低3名が出席した。
3 ここで既に「回答者」が昭和天皇であることはあり得ないことがわかる。1988年に
昭和天皇が会見でこのような内容の爆弾発言をした事実はないからだ。
4 徳川侍従長の引退会見記事の内容が、このメモ内容と一致することから、会見は徳川
侍従長の引退会見、「回答者」は徳川侍従長であることが明らかである
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